フランス近世時代のお菓子の歴史

フランスの近世時代のお菓子や料理、食文化に関する歴史をまとめました。近世時代は百年戦争終結及びビザンツ帝国滅亡の1453年からフランス革命の起こった1789年までとしています。

目次

時代背景

近世時代の始まり新大陸の発見(1492年)や宗教改革(1517年〜)などヨーロッパ社会が新たな時代を迎える兆しが見えてきました。しかし、中世時代末期の百年戦争(1339年〜)による混乱やペストの流行(1348年〜)による混乱により、社会は停滞していました。よって、料理に関しては大きな変化は見られず、中世の影響が残っていました。

16世紀に入ると、政治的な安定がもたらされ、国力が徐々に回復していきました。

クリストファ・コロンブスによる新大陸発見を契機にヨーロッパにはない新しい食物が持ち込まれました。その食材にはじゃがいもやさつまいも、とうもろこし、トピナンブール(キクイモ)カボチャ、インゲン豆、落花生、唐辛子、トマト、七面鳥が含まれていました。フランスで七面鳥やインゲン豆はすぐに料理に取り入れられましたが、そのほかは19世紀以降に広まります。嗜好品としてカカオやタバコもこの時に移入しました。

14世紀半ばからの百年戦争やペストの困難により後退した農業生産を立て直すための改革が行われました。アンリ4世の治世ではオリヴィエ・ド・セールが輪作による効率的な農業経営を行い、新大陸からの新しい作物を栽培しました。

そして、ルネサンス期にイタリアからの食文化が導入されたことにより、17世紀からの料理の改革の土台ができていきました。

イタリアからの影響(15世紀半ば〜17世紀初め)

1515年にフランソワ1世が国王に即位し、フランスのルネサンスを牽引し、イタリアから食文化の影響を大きく受けました。この時期にメディチ家とフランス王の間で2度の婚姻が行われました。メディチ家はイタリアのフィレンツェで銀行家、政治家として台頭した大富豪で、フィレンツェはルネサンスの中心として栄えた都市です。イタリアは10世紀からオリエントからサトウキビを輸入していたため、砂糖を使ったお菓子が発展していました。1533年にメディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスとのちのアンリ2世、1600年マリー・ド・メディシスとアンリ4世との婚姻を通して、イタリアの洗練された食文化が導入されました。パティスリーでは、フルーツコンフィ、アーモンドペースト、パット・ド・フリュイ、ヌガーといった砂糖菓子、サバイヨン、シュー生地、マカロン、メレンゲといった菓子が伝わりました。イタリアからは、料理ではなく菓子の影響が大きかったと言えます。中世時代に行われていた皿やグラスの共有は廃れ、フォークや取り皿、ナプキンなどのテーブルウェアやマナーが導入されました。一方、フランスでは甘味としてベニエやぺ・ド・ノンヌ、フアス、マーマレードをデザートとして食べていました。

シャルル9世の治世に、パティシエに関する規則が制定されました。新しい地位「パティシエとウブリエ職人の芸術の達人」がパティシエに与えられました。パティシエは肉や魚、チーズのパテ(pâtés)を作る独占的な特権を与えられました。また、パティシエの見習い期間は5年と定められました。さらに、翌年の1567年にはパティシエの同業組合(ギルド)が結成されました。パティシエという職業が出現したのはこの頃で、甘い食べ物ではなく、生地を用いた塩味の食べ物を提供していました。

16世紀末には味付けが変化しました。中世時代には酸味の効いた味が好まれ、多量の香辛料を加える調理が主流であったが油脂やバターが使われるようになりました。また、甘味は徐々に蜂蜜から砂糖(当時は砂糖ペーストと呼ばれた)を用いるようになり、14世紀には好まれなかった甘味が高い評価を受けるようになりました。

ショコラの時代(17世紀半ば〜1715年)

宮廷料理(オート・キュイジーヌ)はヴェルサイユ宮殿でのルイ14世治世の料理のことで、絶対王政下の貴族が王から権力を取り上げられたため美食に関心を持ったことにより完成していきました。中世時代に一体となっていた甘味と塩味を分け、酸味は少なくなり、香辛料の使用は減った。ニンニクや玉ねぎ、パセリなどのハーブや香味野菜、アーティチョークやアスパラなどの野菜、マッシュルームが使われるようになりました。肉の塊を出すのはやめ、少量の肉・魚を焼き、ブイヨンやバターでソースを作るようになった。また、野菜の量を増やし、胃の負担を軽くしました。ヴェルサイユ宮殿や貴族の館で宴会が頻繁に行われたことにより、フランス式サービスが確立しました。サービスは3回に分けて行われ、1回目はポタージュ、2回目はロースト、3回目に砂糖菓子や果物が提供されました。

17世紀は料理の分野では大きな変化があったが、パティスリーではなんの進化もなかった。変化があるとすれば生の果物が食事の最初から最後に変更されたくらいです。

1600年に出版されたオリヴィエ・ドゥ・セールの『農業経営論』にはビーツから砂糖を抽出することに成功したと書かれている。

1653年のラ・ヴァレンヌが書いた『フランスの菓子職人』には折込パイ生地、ブリゼ生地、シュー生地についての記載がある。1690年に出版された『万能辞書』によるとパティスリーの定義は「バターや砂糖を使った生地に肉や果物を詰めたパステ、トゥルト、タルト、ビスキュイ、ブリオッシュなどを作る」としている。当時のパティスリーでは甘味だけでなく塩味の料理も提供していました。

この頃はチョコレートと砂糖に熱狂していた時代だといえます。カトリーヌ・ド・メディシスによって伝わり、宮廷で食べられるようになっていたアイスクリームがブルジョワジーにも広まります。シチリア出身のイタリア料理人のフランチェスコ・プロコピオが1686年当時パリの流行の中心地であったアンシャン・コメディ通りにカフェ・プロコープを開店しました。フランスで最初に開店したカフェです。コーヒーや茶、ショコラ、アイスクリーム、ビスキュイを提供して評判を呼びました。

スペイン王女アンヌ・ドートリッシュとルイ13世の婚姻により、フランスにチョコレートが伝わりました。特にルイ14世治世のヴェルサイユ宮殿では熱狂的に好まれました。1688年に薬剤師で作家のフィリップ・シルヴェストル・デュフォアが書いた著書によると、「スペインやフランス、イギリス、イタリアではチョコレートは一般的になっており、新大陸のような特有の飲み物ではなくなっている」と述べています。

この時代のチョコレートとはホットチョコレート(ショコラ)のことで飲み物でした。現在のような固形のチョコレートが出てくるのはまだ先のことです。

中世時代から続いていたキリスト教の断食の規則は少しづつ緩和されつつもまだ続いていました。その断食中にチョコレートは食べてもよいのか否かという問題が提起されました。もしチョコレートが食べ物であれば断食期間中は食してはいけませんが、飲み物であれば期間問わずに口にすることができます。この論争は1591年から250年に渡って議論され続けましたが、17世紀にはチョコレートは水にチョコレートを溶かしているため飲み物であり、断食を破らないという説が唱えられました。

新しい時代に突入するパティスリー(1715年〜1789年)

1493年よりコロンブスはカナリア諸島とイスパニョーラ島(現在のドミニカ共和国)から来たサトウキビを導入しました。それまではアラブ世界から来ていたサトウキビは西インド諸島から来るようになりました。サトウキビのプランテーションは1643年に始まり、マルティニーク島やグアドループ、サント・ドミンゴ(ドミニカ共和国の首都)ですぐに広がっていきました。これにより、砂糖の価格は以前よりも大幅に下がり、入手しやすくなりました。砂糖の精製所はボルドーやナント、マルセイユ、ルーアン、ラ・ロシェルに構え、コルベールの下で発展した。この輝かしい世紀は、フランスの支配の時代と言えるものであり、砂糖はヨーロッパの経済と政治の主要な要因となりました。

18世紀には、塩味と甘味の料理が別のものとして認識され、甘味は食事の最後に提供するようになりました。その結果、砂糖の嗜好が高まり、貴族に仕えるパティシエたちは自らの技術を上げることに熱心になり、砂糖を扱う技術も向上しました。砂糖は加熱する温度によって状態や風味、香りが変化することが明らかになりました。1750年のムノンの著書『砂糖菓子の科学』にも砂糖の加熱による変化について書かれています。

この時代には香辛料の使用は完全になくなり、脂肪を多用するようになりました。1739年マランが書いた『コムスの贈り物』には「バターはパティスリーの魂である」と書かれており、菓子にもバターを使っていたことが分かります。

さらに、18世紀には軽い食感の菓子が好まれたこともあり、ベーキングパウダーで生地をふんわりとさせ、軽い食感のシャンティイクリームも多用されました。パティスリーの名前はピュイ・ダムール(愛の泉)やジャルジー(嫉妬)といった詩的な名前をつけることが流行りました。パティシエという職業の需要が増え、パリのパティシエは1767年に200人を越えるほどに増えました。

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