アニス・ド・フラヴィニはグリーアニスの種を砂糖で覆って飴状にした小さなお菓子です。ブルゴーニュ地方のフラヴィニー=シュル=オズランの特産です。
白くて表面は滑らかで小さな球状の形をしています。真っ白な色でアニス、シナモン、オレンジ水、フランボワーズ、マンダリン、ミント、オレンジ、レグリーズ、ローズ、バニラ、すみれ、カフェ、レモン、ジャスミンといった様々な香りをつけています。
楕円形の金属製の缶に入っており、缶には羊飼いの少年と少女のイラストが描かれているのが特徴です。
当初のパッケージは細長い紙箱でしたが、1950年代に入ると自動販売機での販売に際して頑丈なパッケージが必要となり、金属製の缶が考案されました。
名前
- Anis de Flavigny
-
[anisdəflaviɲi] アニス ド フラヴィニ / フランス語
構成
分類 | 砂糖菓子/コンフィズリー/ボンボン |
構成 | – |
材料 | 砂糖 スターアニスの自然香料 緑アニスの種 |
誕生した時代・場所・人物
時代 | 812年(9世紀) |
国 | フランス |
地方 | ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏 |
町 | フラヴィニー=シュル=オズラン(Flavigny-sur-Ozerain) |
人物 | 不明 |
歴史・由来
紀元前52年、アレシアの戦いでカエサル率いるローマ軍がガリア人連合軍に勝利。戦時中、カエサルはグリーンアニスの種を消化不良を訴える兵士のために持ち込んでいました。カエサルは老兵フラヴィニスにこの丘を与えました。
クロヴィス(465年~511年)の統治時代、フラヴィニーに最初の修道院が建てられます。719年にはヴァレ(またはヴィドラドウス)が修道院を設立します。
812年、カール大帝が修道院でアニスを栽培するように命じます。修道士たちはアニスの種を砂糖で包み込むこと思いついたと言われています。これが現在のアニス・ド・フラヴィニです。
12世紀に入ると、町を取り囲む外壁、そしてサン=ジュネスト教会の建設が始まります。14世紀末から14世紀初頭にかけて、町と修道院は要塞化していきます。
1591年にはスミュール=アン=ノーソワ市では、この地を訪れる賓客にアニス・ド・フラヴィニを贈っていたと記されています。
1644年、サン=マールのベネディクト会修道士が定住します。サン=シモン公は、ルイ14世はアニス味のキャンディが好きで、丸く平らな携帯用のボンボニエールにキャンディを大切に保管していたと回想録に書き残しています。
1660年、アプトを巡回していたアンヌ・ドートリッシュ(ルイ13世の妻、ルイ14世の母)に6リーブルのドライフルーツジャム、4リーブルのドラジェ、3リーブル半の砂糖で覆ったアニスを贈られました。
1700年、コンデ公はディジョンに滞在していた際に4ダース(38リーブル)のアニス・ド・フラヴィニを受け取りました。3年後にはさらに24箱のアニスを受け取りました。
フランス革命が勃発後、1792年には修道士たちが修道院を去り、建物は国有財産として売却されました。教会の一部は解体され、石は村の民家を建てるため材料として利用されました。フラヴィニーの住民8名がアニスの製造を継続しました。
1896年、ガリマール氏が修道院とアニスの製造所を購入しました。
1923年、ガリマール一家のジャン・トゥルバがアニスの製造所を受け継ぎます。彼は駅や地下鉄などの自動販売機でアニス・ド・フラヴィニを販売するアイデアを思いつきます。さらにパリの百貨店や移動遊園地、映画館へと販売を拡大していきました。1928年には年間80トンのアニス・ド・フラヴィニを製造し、アメリカ、カナダ、アルジェリア、ヨーロッパ諸国に輸出していました。
1965年、父ジャンから息子の二コラ・トゥルバが製造所を引き継ぎます。修道院内で製造を続け、昔からの製法を変えることもなく、アニスの年間製造量を80トンから250トンに増やし、高速道路のサービスエリアやブルゴーニュ地方のスーパーマーケットの店頭にも並びました。
1990年、ニコラの娘カトリーヌ・トゥルバが後継者になり、ガーデニングショップやオーガニック食品店、空港、駅で販売されるようになり、販路を拡大していきました。
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