クロワッサンはフランスでも朝食やおやつとして定番のパンで、食事としてのパンというだけではなく、フランスの文化を象徴する食べ物となっています。
バター入りのものが定番でしたが、植物油が使われてきたり、完全な手作りでも少なくなってきており、少しずつ状況も変わってきています。
この記事では、クロワッサンのフランスでの現状、材料、由来について解説しています。
クロワッサンとは?
クロワッサンとは折込パン生地とバターで作った生地を三日月の形に成形したパンのこと。フランスでは定番のヴィエノワズリーのひとつです。ヴィエノワズリーとは、バターを加えたり、チョコレートや砂糖などで甘味をつけた菓子パンのこと。
フランスでは特に週末の朝食や子どものおやつとして食べます。そのまま何もつけずに食べたり、さらにジャムやチョコレートなどをつけて食べることもあります。
クロワッサンに甘味はあまりついていませんが、食事と一緒には食べず、基本的には中に具を挟んだサンドイッチもあまりみられません。
ひとつのサイズは手のひら大の大きさで、値段はどのブーランジュリーで1〜2€ほどです。5cmくらいのミニサイズのクロワッサンを量り売りで置いているところもあります。
ブーランジュリーでは手作りのクロワッサンを提供している店もありますが、市販の冷凍品を使っている店もあります。TF11によると、フランスのパン屋さんの80%では冷凍のクロワッサンを使っていると述べています。
1993年より、フランスではパン屋(boulanger)が自家製パンを販売するには、店で生地をこね、成形し、焼き上げることが定められています。特にバゲットは厳しく規制されており、材料が厳密に規定され、添加物は一切禁止されています。
しかし、ヴィエノワズリーに関しては冷凍品を使っている店もあります。
実際に、自家製か冷凍品であるかは見分けがつきにくく、価格でも判断できにくいです。食べるときにボロボロと皮が落ちてくるクロワッサンが冷凍品とも言われていましたが、冷凍品の質も上がり、本当に見分けがつきにくいのです。
冷凍品を使う理由としては、製造行程や時間の削減だとされています。クロワッサンを手作りする際には、生地を捏ねて発酵させ冷蔵、成形し、再度発酵、焼成という流れが必要で、発酵や冷蔵の時間も考えると、夜中から作業する必要があります。しかも、価格は1個1,5ユーロ前後と低価格です。
一方、冷凍品は最後の発酵のみ、もしくは発酵不要のクロワッサンもあり、作業時間が大きく削減できます。
よって、パン屋さんにとって冷凍品は好まれているのです。
また、伝統的にはバターを使っていましたが、現在ではマーガリンや植物油(ひまわり油)も用いているクロワッサンもあります。この点では食べると簡単に判別ができますし、パッケージや札にも表示されています。

フランス語の名前
- Croissant
-
[kʁwasɑ̃] クロワッサン / フランス語
クロワッサンの材料・構成
分類 | 菓子パン/ヴィエノワズリー |
構成 | 発酵折込パン生地/クロワッサン生地 |
材料 | 小麦粉 バター 水 砂糖 塩 酵母 |
クロワッサンが誕生した歴史
時代 | 1864年 (19世紀) |
国 | オーストリア |
地方 | – |
町 | ウィーン |
人物 | フランツ・コルシツキー (Franz Kolschitzky) |
クロワッサンはウィーンで生まれた説が有名ですが、フランスのパリで作られていたという説もあります。

クロワッサンはバターを層のように折り込んだ三日月の形をしていて、フランスを代表するヴィエノワズリーのひとつでもあります。
クロワッサンの先祖とされているキプフェル(Kipferl)は東欧の国で13世紀より作られていました。しかし、レシピが残っていないため、甘いのか塩っぱいのか、現在のクロワッサンのような折込パン生地がつかわれているのかは分かっていません。
ウィーンで誕生した伝説
1863年、神聖ローマ帝国の首都だったウィーンはオスマントルコ軍に包囲され、今にも陥落という状況に追い込まれていました。ポーランド王国からの援軍を待っていましたが、いつまで待っても援軍は来ませんでした。
そんなとき、通訳官を務めていたフランツ・コルシツキーがトルコ人に変装し包囲網を抜け、ポーランド国王に援助を要請しました。
彼のおかげで、駆けつけたポーランド軍と神聖ローマ皇帝軍によりオスマントルコ軍を撤退させることに成功しました。彼はお礼としてウィーン市より、オスマン軍から奪った500袋のコーヒー豆をもらいました。
その翌年、コルシツキーは聖シュテファン大聖堂の近くにカフェを開店し、コーヒーやクロワッサンを提供していました。「青い瓶」という店名で、当時ウィーンで初めてできたカフェでした。
その頃、ヨーロッパではコーヒーに砂糖やミルクを入れずにブラックのまま飲んでいて、コーヒーは薬という位置づけでした。コルシツキーは漉したコーヒーにミルクを入れる飲み方を紹介し、苦いだけのコーヒーが甘くてほろ苦いコーヒーとなり、人々に気に入られてきました。その後、パリやロンドンにも伝わり、砂糖も加えて甘いコーヒーも飲まれるようになりました。
神聖ローマ皇帝レオポルド1世は「小さな角」を意味するドイツ語であるHörnchenを作る許可を与えました。これはクロワッサンのことで、オスマン帝国のシンボルである三日月の形をしていました。
なぜ、敵だったオスマン帝国のシンボルのパンを作らせたのかというと、ウィーンでは 「クロワッサンを食べることは、トルコ人を食べることだ」という意味があったからなんだそうです。
実際にコルシツキーは通訳官でしたが、パン職人だったという伝説もあります。
ウィーンを包囲していたオスマントルコ軍は、ある夜、地下を掘ってウィーンに入ることを決めました。
しかし、パン屋さんの朝は早く、みんなが寝静まったころに起きて仕事をはじめていました。コルシツキーは地下から聞こえてくる異常を察知し、守備隊に知らせます。駆けつけた神聖ローマ皇帝軍とポーランド軍によりオスマン軍を撤退させました。
その後、同様にカフェをオープンしてクロワッサンを提供したという説です。
しかし、実際にはコルシツキーは通訳官だったようです。どちらにせよ、コルシツキーはウィーンを救った英雄として、ウィーンにはコルシツキー通りがあり、石像が置かれているほどの人物なんだそうです。
こちらのウィーンでクロワッサンが作られるようになったという説が有名ですが、実はその前にパリで作られていたという説もあります。

パリで作られていた説
実は、ウィーンでのコルシツキーの活躍の前に、すでにパリではクロワッサンが作られていました。
1837年ごろ、パリでクロワッサンが注目を集めました。ふたりのオーストリア人(August Zang / Ernest Schwarzer)が2区のリシュリュー通りにウィーン風ブーランジュリーを開店し、そこでクロワッサンを販売していました。
クロワッサンは一気に人気を得て、ほかのブーランジュリーでも売られるようになります。1850年ごろにはすでに日常的に食べられるパンとなっていました。
朝食のメニューとして定番のクロワッサンですが、朝食として食べられるようになったのは1950年代に入ってからです。現在では朝食やおやつとして食べられています。





関連するお菓子
発酵折込パン生地(クロワッサン生地)を使ったヴィエノワズリーには以下のものがあります。
- ブリオッシュ・フォイユテ(バターを折り込んだブリオッシュ)
- クロワッサン・オ・ザマンド(アーモンドクリーム入りのクロワッサン)
- エスカルゴ・オ・ショコラ(カスタードクリームとレーズン入りのクロワッサン)
- クイニー アマン
- パン・オ・ショコラ(チョコレートバー入りのクロワッサン)
- パン・オ・レザン(カスタードクリームとレーズン入りのクロワッサン)
- パン・スイス(カスタードクリームとチョコチップ詰めたクロワッサン)
- サクリスタン(ねじったクロワッサン)